「カンボジアの小学校訪問」で見た〝学びの本質〟と、日本人が学校教育で忘れてしまったこと【西岡正樹】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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「カンボジアの小学校訪問」で見た〝学びの本質〟と、日本人が学校教育で忘れてしまったこと【西岡正樹】

分からない問題を解こうと必死に取り組む姿勢がここにはある

「Learning Journey」の参加者たち

 

 このティエンの様子を見ていると、数年前に私が担任した5年生の女の子の姿が思い浮かんでくる。算数の苦手な友子(仮名)も、算数の度に頭を抱えていたのだ。

 「先生、どうしても分からないの?」

 友子はその度に、悲しげな顔を私に向けてくる。そして、しばらくの間、クラスの仲間や私が、友子の理解を促すように説明を繰り返すことになるのだ。それは算数の時間において日常になっていた。私はその度にクラスの子どもたちに、次のような話をした。

 「友子のおかげで本当はよく分かっていなかったのに、よく分かるようになった者もいるだろう。さらに深く分かった者もいるよね。この時間は、友子だけの時間ではないんだよ」

 共に聴き合い教え合い、そして、ようやく理解できた時に見せる、弾けるような友子の笑顔を、私は今でも思い出すことができる。

 確かに、その授業に時間内で理解しなければならない課題が明確にあるならば、その計画に沿って行われるべきだろうが、結果的にそうならないことも多々ある。「学び」というのは、常に目的が達成される訳ではなく、その時間に活動したことだけがレディネスとして子どもたちの中に蓄積されることもあるのだ。友子の場合もそうだった。必ず、その時間に理解できたわけではなかった。ティエンたちのグループもこの時間の中でこの問題を解くことはできないだろう。しかし、この教室の学び手たちの姿を見ていると、分からないといことに対してあきらめることなくチャレンジし続けていることの「尊さ」を、私は感じることができる。

 いつしか、友子もティエンも、そして彼女たちに引きずられたクラスの子どもたちやティエンのグループにいるジウ、ソンそしてフーンも「分からない」ことに対しての抵抗感が薄らいでいったに違いない。分からないことを夢中になって追い求めている女性たちや子どもたちの姿を見ていると、教室の中で本当に必要なことは「これなんだな」と気づかせてくれる。分からなことやできないことを隠すことなく行動し、周りの者たちもそれを他人ごとではなく自分事として関わる姿は、私たち人間の本来の姿なのではないかと私に思わせてくれるのだ。

 結局、ティエンたちのグループは問題を解くことはできなかった。そればかりか、授業後チャンナ先生は、ティエンに問題を解く道筋を丁寧に説明していたのだが、それさえも理解できていないようだった。納得できるように説明しないチャンナ先生に不満顔を見せていたが、半面それは、自分の理解がそこまで至らないことへの憤りにも見えた。その様子を見ていると「答えは自分で見つけなさい。分からなかったらグループの人に訊きなさい。自分の力で答えを見つけるから算数は楽しいのです」というチャンナ先生の思いが、女性や子どもたちに伝わるのはそう遠いことではないように思えたのは、楽観的すぎるだろうか。

 「学びの中で見えてきた新たな学びが、人を成長させるのだ」

 今日の授業を通して、私に見えてきたことである。チャンナ先生、工房の女性たち、そして子どもたち、ご苦労様でした。多くの学びを得ました。ありがとうございます。

 

文:西岡正樹

 

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西岡正樹

にしおか まさき

小学校教師

1976年立教大学卒、1977年玉川大学通信教育過程修了。1977年より2001年3月まで24年間、茅ヶ崎市内の小学校に教諭として勤務。退職後、2001年から世界バイク旅を始める。現在まで、世界65カ国約16万km走破。また、2022年3月まで国内滞在時、臨時教員として茅ヶ崎市内公立小学校に勤務する。
「旅を終えるといつも感じることは、自分がいかに逞しくないか、ということ。そして、いかに日常が大切か、ということだ。旅は教師としての自分も成長させていることを、実践を通して感じている」。
著書に『世界は僕の教室』(ノベル倶楽部)がある。

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